デリシャスタイム

ただ感情の隆起した部分をここに詰め込んでるだけです。

インナージャーニーのクリームソーダは「過去の君から抜け出せない僕の物語」 大好物でした。。。

【インナージャーニーとの出会い】

 

また新しいバンドが出てきました。

 

僕たちは時間があれば新たなバンドを見つけて、

見つけては熱狂して、

仲間とその熱狂を共有して、

またさらに巨大な熱狂に変えている。

 

そんな音楽好きな人ならきっとわかってくれる。

インナージャーニーのクリームソーダの中毒性を。

 

www.youtube.com

 

僕がこのバンドと出会ったのはSpotifyの中でだ。

いつものように

銀杏BOYZの「あいどんわなだい」を聞き、

オレスパの「敏感少女」からの

メメタァの「突然少年」を

聞きながら通勤していた。

そして突如として目に飛び込んだ

「あなたへのオススメ」

インナージャーニーとクリームソーダの文字。

少しずつ僕のモーニングルーチンを崩していった。

 

繰り返されるプレイリストに

最強の一曲が加わった。

 

ちなみに

クリームソーダって

最近インスタで流行っているけれど、

僕はソフトクリームよりも

スーパーで売ってるような安アイスを雑に塊のまま入れられたクリームソーダが好きです。

 

クリームソーダについて考えている君という存在は

いつからクリームソーダが好きなんだろうか。

どんなクリームソーダを愛しているのか

ほんとここ数ヶ月だとしたらちょっと嫌かもな笑

 

【歌詞について】

まず最初の第一声。

ラクタだらけの六畳一間のこの部屋で、

僕はクリームソーダについて考えてる。

 

 

まず私はこの歌詞を聞いた瞬間に

こんな六畳一間が頭に浮かんだ。

・畳

・風鈴

・扇風機

この三種の神器と、月3万円の安アパート。

夏も終盤、秋の訪れを感じながら、

窓から涼しい風といっしょに

なんとなしに買った風鈴の弱気な音が

なびいて来る。

「僕」は仰向けで天井を見上げながら

「クリームソーダ」について考える。

 

炭酸はあまり好きじゃない君のことも思い出して

ああやっぱり今年も夏がくたびれてる 

 

ここで出てくる「君」の存在。

そして「ああやっぱり今年も夏がくたびれてる 」

この歌詞の意味を考えてしまう。

おとなになるにつれて夏に憧れを持ってしまいがちなんだけれど(ここ俺だけ?笑)

もしかしたら

夏への憧れを妄想の中でリフレインするのを

「夏がくたびれる」って言うのかもしれないな。

 

I wanna be alright 

きっといつかはわかるはずさ

I wanna be alright 

世界は広いと信じてたいけど

背伸びをしているダサい君のこと愛してたのさ

 

さてサビに入りました。

 

「I wanna be alrigh きっといつかはわかるはずさ」

今はまだわかってないけどね。

「I wanna be alrigh 世界は広いと信じてたいけど」

ほらまだ世界は狭いと思ってる。

六畳一間で完結する世界しか知らないんだ。

「背伸びをしているダサい君のこと

愛していたのさ」

ここでまた出てくる「君」の存在。

背伸びをして、まるで世界を知っているような

口ぶりで話す「君」を

ダサいと思いつつも、

それさえ愛しいと思っている自分がいる、

いや「いた」のか。

ここ過去形なんだ、、、

別れちゃったのか、付き合ってないけどお互い好きって可能性もあるよなぁここ、、

なんか切ないかほりしてきましたね!!!!!!

テンション上がります。

 

それでもどこかで生きているんだと

夢に描きながら

僕はクリームソーダについて考えている。

大好きだったあの曲の最後の4小節が終わる頃

頭の中の炭酸が抜ける音がした。

 

改めて考えてみるとここまで

「君」が何かを「僕」にしてくれた

場面はなかったし、

「僕」が見ている「君」という存在しか

登場しない。

「僕」という狭い世界の中でしか存在できない「君」の存在が

すごく美しかったり、愛しかったりする。

そしてすごく切ない。 

でもそういうのめっちゃ好き。ありがとう。

 

さてここで「君」の存在に言及する。

「それでもどかで生きているんだと

夢に描きながら」

え、「君」って死んじゃったの?

それともどこかに行ってしまったの?

前者だったら「君」の死を

受け入れられなくて歌っているのか?

後者だったら「君」は「僕」と別れて、

どこかで暮らしている(それこそ夢を追いかける為に別れた)のか?

もしかしたらそんなドラマチックな話ではなくて、ただ別れただけかも?

ここはいくつものパターンで楽しめるので、

お好きなストーリーでお楽しみください笑

 

「大好きだったあの曲の最後の4小節が終わる頃頭の中の炭酸が抜ける音がした。」

この歌詞めっちゃ好き

一番好き。

この表現すごいよ。

 

「大好きだったあの曲」って誰にでも一曲はある。

 

それは好きな人の好きな一曲かもしれないし、

好きな人に好きになってもらった

一曲かもしれない。

学生時代に友達とくだらない話をしながらも、

おすすめされた一曲かもしれないし、

あなたと夢を語った後、

立ち寄ったカラオケで歌った一曲かもしれない。

 

その曲を聞いて最後の4小節が終わる頃

「頭の中の炭酸の抜ける音がした」

なんか多分この言葉以外に最適な言葉ない。

好きだった曲を

「聞き終わってしまう、、、

あ、聞き終わっちゃった、、、」

ってときの感情は

「頭の中の炭酸が抜ける音がした」が正解です。

ありがとう。

 

そして最後

 

I wanna be alright 

きっといつかはわかるはずさ

I wanna be alright 

世界は広いと信じてたいけど

慣れない笑顔作りながら

また忘れていくのさ

 

愛していくのさ

 

「慣れない笑顔作りながらまた忘れていくのさ」

「君」の前ではうまく笑えていたけど、

他の人の前では

「慣れない笑顔」をするしかなくて、

うまく笑う方法は

「また忘れていくのさ」ってことかな。。。?

だとしたら「君」という存在大きすぎるだろ。

 

「愛していくのさ」

狭い世界で生きている自分を「愛していく」のか、

それともうまく笑えていた頃の自分を

「愛していく」のか、

かつての「君」との思い出を愛していくのか、

またはその全部か。

 

全てはあなたのご想像におまかせします。

 

【終わりに】

まとまらない文章でしたが、

ここ最近で割とかなり心動かされた作品でした

 

私の解釈にはなりますが。

「僕」というのは女の子で、

「君」が男の子だと思います。

(多分どっちでもいいです)

 

「君」が何かをしたとか、

なんかこういう声をかけてくれたとかそういう話は

一切登場しないので

きっと「僕」の解釈だけで歌われています。

もしかしたら付き合ってなくて、

一方的に「君」が好きで、

告白もできずにどこかに行ってしまって、

連絡も取れなくなって、

でも一緒に過ごした時間を思い出して、

何度も感傷的になっていく。

それを繰り返していく人生なのかもしれません。

 

 

過去を美化してしまうことってありますよね。

きっと今の「君」は昔とは別人なのに、

過去の「君」を思い出して

好きになってしまう。。。

それは今の「君」を好きなんじゃなくて、

あの頃の「君」が好きなんです。

うわー切ない。。。でもそれって一番哀れで、人間らしくて、愛しいですよね。

 

こういう作品ホント好きです。。。

風○行った話2

最近風○に行ってすごい良かったのが、

最初のピロートーク

俺が学生時代楽器を習っていたという話になり、

「すごい色々楽器できるんだね!」と褒めてくれた。

でも俺は「いや全然できないけどね~」とクソみたいな返事をした。

それに対して彼女は「色んな経験できていいね!」と言ったんだ。

すごい勇気づけられた。

 

今まで自分は楽器を習ったり、部活で楽器を演奏することを「経験」

と捉えたことがなかった。

普通にやってきたことだし、

こなして来た当たり前のことをしてきた感覚でしかなかった。

 

楽器の演奏が上手い下手という

「結果」ではなくやってきた事実を「経験」という言葉で肯定してくれた。

更にそれが「良いもの」だと捉えることは

自分一人ではできなかったかも知れない。

23年間生きてきて初めて味わった全肯定の言葉かもしれない。

当たり前のことは言われなきゃ気づかなかったりするんだと。そう思った。

 

その後俺は思わず「それめっちゃいい言葉だね!」と言ってしまった。。。

いきなりキモかっただろうな。

 

でも本当に今日はいい「経験」をさせてもらった。

ありがとう。

あなたは人を笑顔にできる(かも?)

最近は「おうち時間」や「STAY HOME」といった言葉をよく聞くようになった。

普段から休日はあまり外に出ないで家で過ごすことが多いのでそれ程苦ではないだろうと思っていたが、

人と合わないとそれはそれでストレスを感じるものだ。

今まであったはずのおそと時間はなくなり、

全てがおうち時間に変わったことで

家族以外の人間と過ごす時間がとてつもなく減少した。

本当は家族以外の好きな人(恋人でも友達でも)と過ごす時間こそ

真に自分を開放できる時間なのかもしれない。

 

Instagram(以下インスタ)のストーリーで「おうち時間」というスタンプがあるのはご存知だろうか?

ずっと家にいて暇なわけだから

他人がどのような暇つぶしをしているのか気になるのが人の性というものだ。

この時期だと

今見ている映画、ドラマ、アニメの感想

過去に行った旅行の写真

Zoom飲み会の写真

お絵かきの写真

自炊の写真

などが多い。

インドア人間のわたしは

普段ストーリーを見ているとディズニーランドで楽しそうにしている写真や、

わいわいドライブをしているショートムービーなどを見て一日中家にいる罪悪感や孤独感を感じるのだが、今はそれがなくていい。

でも逆におうち時間のストーリーには前みたいな賑やかさや騒々しさはなく、多様性が失われた気がして寂しい感じがする。

 

 

この時期だからこそストーリーを見る人は多いだろうに、自分からストーリーに提供するコンテンツは相対的に少ない。(ストーリーに投稿することコンテンツ提供とか言ってる俺はそろそろおかしい)

 

そこで思いついた。

「俺もストーリーでおもろいことやれば

いつもより多くの人が見てくれるのでは?」

俺がみんなを笑顔にするんだ!なんて思った夜もあった。

でも思い浮かばない。俺だけではなく、みんなが面白いであろうコンテンツを

一人で作成し、提供(投稿)しなければならない。

星野源みたいにいい歌が作れるわけじゃないし、芸人みたいにギャグがあるわけでもない。俳優みたいにハンサムではないし、かわいいイラストが描けるわけでもない。

でも、自分の友だちを一人でも笑わせられたらそれでいい。

誰かに「面白いね!」と言ってもらいたいという

小学生の時から持ち続けた欲求だけが俺の創作意欲を掻き立てた。

 

そしてついに、、、自分が自身を持って面白いと思うものができた。

それがこれだ、、、ワン!ツ!スリー!(ザ・ベストハウス123風)

 

 

「架空人物シリーズ」

実在しない架空の人物になりきってそれっぽい事を言うというものだ。

これまでに4人のキャラになりきった。

「マヨラーの山本」

設定 毎マヨネーズにはサインペンで「山本」と書いて持ち歩く。

最近はカントリーマアムとマヨネーズの組み合わせにハマっている。

「おしぼりストの京介」

設定 全国のおしぼりをあつめている。コンビニのおしぼりには

どこでもらったものか記している。

ちなみに「ミニストップ」は「ミニスト」、「ローソン」は「ロン」と

略している。

 

「都市伝説テラーの岡田」

設定 都市伝説系Youtuber

「短パン野郎のショウ」

設定 生まれた季節は冬

 

これらのキャラに合った衣装、小道具を用意し、セリフを考えて自分で演じる。

インスタのストーリーは1つ15秒以内という短い制約の中で完結しなければならないので台詞を読むスピード、動作数、間の使い方がかなり難しい。

かと言って2つも3つもつなげて15秒以上の動画にしてしまうと長すぎて途中で見てもらえなくなる。

15秒以内に収めるからこそ歯切れよく面白い。

誰かの「おうち時間」を邪魔しすぎることなく笑いを提供できる。

これが俺の曲がりなりにものポリシーだった。

15秒以内なので一発取りノーカットで完結するネタでなければならない。。

小道具や変装で笑わせるのか、セリフで笑わせるのか、動きで笑わせるのか、

その両方か。

大多数が面白いと思うだろうという自分の勝手なものさしで測りながら

納得のいくものができるまで取り続ける作業が続くのだ。

自分で何度も撮り直して、何度も見直して、何度も自分で笑った。

自分で自分を見て笑った。

そしてついに投稿した。

私のインスタのフォロワーは344人なのだが、約200名が上記の4名の架空キャラ動画を見てくれた。

最後にどのキャラが一番好きだったかのアンケートにも48名がこたえてくれた。

ちなみにアンケートの結果が以下である。

マヨラーの山本       8

おしぼりストの京介     11

都市伝説テラーの岡田    13

短パン野郎のショウ     12

 

 

普段から私のインスタストーリーを見て面白いと言ってくれる人からはもちろん、普段はあまり反応してくれないような友人までもが「面白い」と言ってくれたのでうれしかった。

ちなみに昔好きだった子からも返信が来たのだが、深追いしすぎるとダサいと思ったので、「良いおうちライフを!」とだけ返信した。

今思えば、キザすぎるそのセリフに吐き気がする。やめておけばよかった。

 

結果的にただ約200名近くに見られて数名にだけ「おもしろい」といってもらえただけの話なのだけれど、

でも数名だけでも笑ってくれたのは嬉しいし、約200名でも見てくれてありがとうと感謝してしまう。

自己満足を電波にのせて届けて、それが感想として返ってくる。

これがどれほど嬉しいか。

俺は本番に弱いし、人前に立って面白いことができるわけでもないし、面白い話のネタがあるわけでもないのだけど、インスタのストーリーでは一番おもしろい自信がある。

だって自分の周りでは誰もやっていないことだから。

たった15秒のために2時間も3時間もかけている人はそういないから。

 

誰だって特別になれる。自分自信が特別だとそう思うことができたなら

それは特別だ。

 

STAY HOMEの時期にこそ

あなただけにしかできない特別は眠ってる。 

それを呼び起こそうじゃないの。

そして誰かを笑顔にしてあげておくれよ。

 

「良いおうちライフを!」

 

 

お題「#おうち時間

 

西加奈子著 「i」 感想

西加奈子著 「i」 感想
 
私達は生活の中で考えが及ばないことが多いと本書を読んで感じた。

日本では多くの人が議論とかけ離れた生活を送っている。 ジェンダーや難民、環境問題などの社会問題について語ると難しいねの一言で終わってしまう。 普段の会話は半径1メートルの中で完結する話で、10キロ先、100キロ先、その先何千キロ何万キロ先の世界は話さない。 エゴだとか学を見せつけてるだとか思われるかもしれない。

そんな不安と葛藤しながらどうしたら社会は改善されるのか途方も無い問に嫌気がさしてくることもある。
この本は私のそんな問題を一気に解決してくれた本だ。
作者ががあとがきで語っていた言葉がずっと心のなかに残っている。
「ある貧困の国に行った時、貧困さに胸が苦しくなったけれど、そのあと免税店で安くなってるものに目が行ってしまってそこで吐きそうになった」
貧困で苦しむ人や、戦争で悲しむ人々のことをニュースで見て考える自分と、友人と一緒にお酒を飲む自分は一緒なのだけれどすごく違和感がある。
だから私が戦争や貧困などで困っている人について悲しんだり祈ったりすることは意味がないことだと疑いたくなる。
でもこの本では「誰か苦しみを持った人を想像して思い起こし、想うことで相手は存在していて、存在しうる。
たとえ想うことが無力に感じても想い続けることが大切だ。 」と教えてくれた。
 
 
 

野郎って言葉が嫌いです 

私は野郎という言葉が嫌いです。

 

野郎とは辞書によると以下の通りです。

 

  1.  男性をののしりさげすんでいう語。「あの野郎、ふとい奴だ」「ばかな野郎だ」

  1.  前髪をそり落とした若い男。

    1. 「さてさて利口な―ぢゃな」〈浄・丹波与作

  1.  野郎歌舞伎の役者。

    1. 「歌舞伎といふ事法度になり、太夫子残らず前髪おろして―になりし時は」〈浮・男色大鑑・五〉

  1.  「野郎頭」の略。

  1.  「野郎帽子」の略。

  1.  男色を売る者。かげま。

 

野郎だけで飲み会、野郎ども、野郎がいっぱいいるので(力仕事は)大丈夫です など、いろいろ野郎という言葉を耳にする機会はあると思います。

 

日常的によく聞くかと言われれば、そうではないかもしれませんが、私の母親はよく使います。

 

野郎って蔑称なのに、男性を指す言葉として使われますよね。

これって間違った日本語ではないでしょうか。

 

この言葉を使われる時いつも違和感がありました。

この言葉のイメージは不潔で、暑苦しくて、殺気立っていて、ガテン系で。。。など様々な男らしさ(社会に決められた男性像)が連想されます。

柔らかく優しい印象は全くこの言葉にはないのです。男性へのイメージって実際はそれだけじゃないのに。

 

このような言葉って多くあります。

 

野郎とはまた別の話ですが、

「清楚」という言葉はよく女性の外見を(時には内面も)示す言葉です。

しかし、「清楚」という言葉には男性の求める女性らしさが含まれています。

女の人は清らかで、清潔で、飾り気なくシンプルで、、、

もっと具体的に言えば、黒髪で、メイクも簡素で、行儀も良くて、気配りもできて、

もっともっと言えば、サラダを全員分何も言わずに取り分けて、人間関係になに不自由してなくて、家柄も立派で、母親もきれいで、、、、などなど。

 

後半言い過ぎな部分が多いかもですがそんな感じです。

 

「清楚」とは逆の言葉として「濃艶(のうえん)」という言葉がありますが、

実際は「ギャル」を挙げる人が多いでしょうか。(?)

 

「ギャル」の判断基準ってなんでしょうか。

たぶん見た目によるところが大きいでしょう。

しかし、見た目は派手でも言葉遣いは優しかったり、礼儀も正しく、清楚な性格かもしれません。

 

清楚もギャルもなんだか見た目を表す言葉に見えて

見た目と同時に中身も決定してしまう言葉なのかもしれません。

 

清楚キャラと言う言葉がありますが、あれは清楚な見た目と性格をしているけれど、実は演技で、実際のところは違うという言葉でしょう。

 

この言葉が生まれているということは実際に清楚は見た目とそれ以上に中身のことも形容しているといえます。

 

これは野郎にも言えますよね。

 

こういう偏見チックな言葉って日本語にはたくさんあると思ってて、自分も無意識的に使ってしまうことがあるのですが、気をつけていこうと思っている次第であります。

俺もお前も差別はやめられてない。(今回は性差別)

人は何かと差別をしてしまう。

最近では日本にはなかったLGBTQへの理解、フェミニズムヴィーガンについての認識も高まってきた。

 

この前代未聞の最大加速で進むダイバーシティのネット社会ではたして差別を打倒することはできるのだろうか。

 

私は不可能だと思う。

 

※ここで私が言う差別は差別ではないのではないのか?という人へ。 差別か差別じゃないかは場合によっては私が決め、貴方が決めることであって、私が決めることでも貴方が決めることではない。

1 性的差別

 

 最近トランスジェンダーについての本を読んだ。

正直トランスジェンダーの認識は複雑かつ、自分自身でも完全に理解できているとは言い切れない(勉強不足で申し訳ない)ので言及はさけたいが、私はトランスジェンダーについて名前は知っていたが実際の実情までは詳しくしらなかった。

 

しかし、トランスジェンダーについて知った時、まず男と女の2つの性別しかないと考えるその大前提がもはや間違っていると私ははっきり理解したことは確かだ。

 

そう考えると日常生活には様々な性的差別(性的区別と思う人もいるかも知れないが、もはや差別だと言える。)がある。

 

大きなところで言えば 

トイレだ。 トイレには男子トイレと女子トイレしかない。

 しかし、トランスジェンダーの人はどちらにも属さない第三のセックスなのだからトランスジェンダーの人からしてみれば差別的だと言える。

服装もそうだろう。

スカートは女の子が履くもの、ブラジャーは女の子がつけるもの、ネクタイは男がするものなど。

それは差別でないという認識はもはや正解ではないのだ。

 

(上記で述べたのは記号的差別。女はピンク、男は青だとか)

 

私も今までずっとそのような差別をしてきた。

男は戦隊モノが好きだろうとか、女はファッションが好きだろうとか、なんだか今思えば決めつけも決めつけ、偏見も偏見。

そういう世の中で生きてきたことに違和感を感じてきたのだ。

 

でもそれがわかりやすいレッテルであり、仲間意識をつくりやすい。

だから女はああだこうだという会話が飲み会の席で盛り上がるし、

男はなんだかんだという会話が喫茶店で繰り広げられる。

 

しかし、今まで成り立ってきたその日本の風土を正しいからという理由だけでかえられるだろうか?

日本人の笑いどころというか、お笑いのシステムはおかしな人(を演じる芸人)がいて、なんだかそれが大前提にある常識(この常識は今崩壊し始めているが)ズレてるからなんだか面白かった。

そこでダイバーシティを認めてしまえば今までのお笑いのシステムは崩壊する。

 

例えば、コントで女性キャラを演じる男のおもしろさだ。

女性キャラの何が面白いかといえば、見るからに男性なのに、女装をして女子になりきれてないから面白いことではないか?(ちがってたらごめん)

そう仮定した場合、マジョリティセックスである異性愛者の我々は笑えるかもしれないが、そうではないLGBTQに分類される人(分類という言葉は全く適切ではないが)は面白いと思えるだろうか。

たとえそれらの人が笑えたとして、それは日本の男女の認識の中で笑っているに過ぎない。(と思う)

 

 

だから

日本ではその認識を変えることはできない。

差別をなくすことができないのだ。

 

 

我々は差別をやめることはできない。

しかし

差別を認識した上で

相手を思いやることはできる。

 

LGBTQやジェンダーを心のなかに止めておけば、思い出して配慮できる。

 

そしてそんな認識を思い出させるのはマイノリティの声だろう。

性的差別を感じたときはそういえばいい。

我々は無知な部分が多いので間違ってしまう。しかし、間違った部分は指摘されなければ間違ったままで同じ過ちを繰り返す。

だから、マイノリティは大きな声で間違っていると言ってほしい。

 

そして私は性的マイノリティの人々とまだ仲良くなったことはないが、そのような人間と仲良くなった日のためにここに書いたことは忘れないでいようと思う。

 

おやすみなさい。

「誤解は人生を彩る」

どうもお久し振りです。

久しぶりにブログを再開したいと思っていて、といっても前回の書き出しも久しぶりに〜みたいな話だったので次またいつ書くかは知りません。

 

ただ、ブログではないんですが、日々きになったことをメモに書いてます。

そこをここでちょくちょく吐き出せればいいなと思っております。

 

今日は『西の魔女が死んだ』という最近読んだ小説に出てくる

「誤解は人生を彩る」ということばが胸に刺さったときのことをここに書こうと思います。

 

と思ったんですが、いまグーグルで検索をかけたら同じこと言ってる人がいっぱいいてがっかりしました。

 

まぁ書きたかったのは

 

(主に片思いとかで)自分に好意があるんじゃないか?

なんて誤解してる時って世界がなんだか美しく見えたりするよね。ということでした。

 

でも今冷静に考えて、これを18歳、百歩譲って20歳がここに書き連ねてたらまだ見れるんですが、

ほら、ぼくもう22歳なんですよ。

 

22歳とかで片思いで誤解してるときが〜とか言ってるのやばくないですか?

 

 話はちょっとズレるんですけど、今の20代の童貞率しってます?データがありすぎるんですけど、いろいろ調べたら約30〜40%くらいでした。

 

それで”セックスしない症候群”なんて言葉とかも出てきて深刻な問題になってます。

 

なんかみんな病気にしがちですよね。

なにかと病名をつけたがる。(その話はまた別でしますが)

 

とにかく日本人って童貞にサブカルチャーの気質を加えたというか、その人を表す属性みたいに扱ってきた節があるんですよ。

それでやっぱり童貞を公言できる環境ってできてきたんだと思います。(特にインターネットではネタにしやすい)

 

僕もその一人かもしれませんが。

 

話を戻して、今までの話をラノベ風にすると

「22歳で片思いが云々とか言っていた童貞が、23歳も先行き不安なんですが早く異世界転生してもらっていいですか?」

 

でよろしくおねがいします。