忘れられない夜に
あなたの親友はいつ出会いましたか?
僕が生まれてから21年が経って、それなりの人数の人と友だちになって、いろいろな話をしてきた。
けど、僕にとって本当に好き勝手なんでも言えるのはやっぱり中学時代の仲間だ。
そいつと話してるとワクワクする。
僕はこんな風に友達に向けてのメッセージなんて絶対恥ずかしくて書かないのだけれど、なんだか今日は書かなきゃいけないと思った。
あの夜を忘れないために。
僕の親友は俳優を目指してて、俳優の勉強をしてて取得した豊富な情報だったり、経験談だったりを話してくれる。そんな話を聞いて自分に落とし込んだとき、「井の中の蛙大海を知らずだなぁ」なんて思いながら大きな海を思い描いてる。
彼も夢を追い続けながら就活するんだって。僕も就活しなきゃいけない。
そりゃーみんな思ってることだけれども、好きなことで仕事したい。
僕の親友は俳優で食っていきたい。僕はなにか好きなことに関わっている仕事がしたい(漠然としててごめん)。
本当は雑誌のライターとかになりたい。(たぶん)
たぶんお互いに現実を見なきゃいけないけれど、やりたいことは山ほど浮かぶ。
僕は自作のZINE(日本で言う同人誌的なの)を発売したいし、エッセイだって出版しちゃったりなんかしてバカ売れしちゃったりして、それで自分のラジオ番組とか持っちゃったりして、昔夢だったラジオパーソナリティになったりして、いっちょ前に映画評論とか音楽批評とかしちゃったりして、めっちゃ好きな伊集院光のラジオにゲストで出ちゃったりして、あと話題性だけで声優もやっちゃったりして(昔夢だったし)。
なんて夢を思い描いてるけれど、すっっっっっっっごい恥ずかしいので口に出して言ったりしない。てかそんなこと言える友達っていない。大学生なんてだいたいSEXか麻雀か、付き合っただとか付き合ってないだとか、童貞だとか童貞じゃないとか、経験人数が多い少ないだとか、株を始めたとか初めてないとか、そんな核心に絶対触れないようなうっすいはなしばっかりだ。←こんなこと言ったら嫌われかねないな。
まぁそういう話もいいよ。楽しくないわけじゃないんだけど。
僕が話したいのはもっと自分の夢についてだったり、自分の好きな漫画のあのセリフがあってさ〜とか、あの曲のこの歌詞がいいんだよね、、、とか、将来映画監督になって俺らのこと映画にしようぜ!とか、そういう学生時代に思ってた突拍子も無いまっすぐで純粋に夢を語れた話なんだ。
しかも、すべての話に共感しないでほしい。
「わかるわー」だけで終わらないでほしい。 もっと君の意見を聞かせてほしい。
もっと否定も気にせずにしてほしい。そう思える人がきっと親友なんだろう。
そんな話をタバコを吸いながらしてたら一箱空いてたし、あと自分は酔いつぶれてトイレで吐いたし。
でもなんかそれも自分っぽくていいな。なんてそう思える自分を愛したい。
もっと話したいことはあるんだけど、長くなりそうだからやめようか。
BGM 鶴 「夜を越えて」/ 「その一歩」/「リザーブシート」etc
音楽批評は本当に必要なのか。
音楽批評は必要なのか。
そんな内容の番組がサカナクションの山田一郎さんMCの番組(YOUTBEに上がってる。)
1〜4まであります。
これを友人に勧められて見たのだが、音楽批評は必要なのか。
そんな疑問について自分で深く考える機会をくれた。
私は、音楽批評とは他の批評となのつくものとは全く別物として考えるべきであると思う。
上記の動画でも触れられているように例えば、アニメ批評、漫画批評、映画批評といった作品はボロクソに批判されたりする。それもダイレクトに、なんのオブラートにも包まずに。
私が思うにこれらの作品は純粋に面白いとか面白くないとかで判断できる(ものが多い)。
面白いという感情は多少の違いはあれど、マジョリティーの感じる笑いや面白さは世間の評価と捉えるのが一般的だろう。(娯楽ビジネスが相手にするのは多数の一般人なので当然だが)
しかし、音楽となると話しは別だ。
音楽にはストーリーといったわかりやすい基本構造は存在せず、専門的意見としての音楽理論や、構成は後で考えることとして、ファーストインプレッションはほとんど感覚的に決まる。頭に残るメロディだとか、奇抜な音だとか、人によってそれぞれだ。そんな感覚的で個人差のレンジが広いものに対して、批評などはかなり難しいのだ。
ストーリーで面白いか面白くないか(細かい事抜きで)で評価しやすい映画や、小説(純文学は微妙ではあるけれども)は音楽の評価は全く別物として捉えてもいいと思う。
評価といった、どこかに規準(どこをどう、どのように評価するのかの規定)があって、基準化(規準による評価を数値化するものであり、例えば食べログの星で項目ごとに点数化するようなシステム)するような評価方法音楽には向かないといえる。
それを踏まえれば、音楽は批評であるべきではなく、もっとラフに難しくない言い方をしたほうがいいのではないかと思う。
音楽の意見共有(自分の好きな音楽を他の人に紹介するといったこと)や、音楽に対する意見(音楽に対して批判的意見を述べる)といったような言い方のほうがいいのではないだろうか。←ラフになってないけど笑
まぁふさわしい良い言い方というのは思い浮かばないけれど、批評という言葉のイメージの中にある仰々しさに違和感を感じざるを得ないのは確かである。
ただ、ファンという存在を考慮すると話は少し違ってくる。
熱狂的なファンは、音楽そのものだけではなく、アーティストが好きでLIVEに行ったり、CDを買ったりする事が多い気がする。
それは一種のビジネスミュージックのあり方である。有名人の着てる服を真似して買うというファンも多いのだからアーティストのカリスマ性や、存在感は間接的に経済的影響力を持つのだ。(コンバースのジャックパーセルとかはニルバーナの影響で売れたと言っても過言ではないように。)
筆者である私があたかもそうでないような言い方でこの記事を書いていると思うかもしれないが、もちろん私もアーティストが好きで音楽を好きになることもあるし、音楽が好きでアーティストを好きになることもある。
しかし、これが行き過ぎるとファンはいい評価ばかりしかしない。
最もタチが悪いのは逆に、好きなアーティストへの批判的意見に対しての嫌悪がすごく執着することだ。
ツイッターなどで、そのような負の要素を見つけると鬼のごとく叩きのめし、蹂躙(じゅうりん)することに快感を覚えてるのではないかと思えるほどに批判的意見を排除しようとする。
これは良くないことだと思う。たしかに自分の好きな人を批判されるのは気持ちいいことではないが、人が複数人集まればそれは自然に起こりうる要素であるし、人それぞれ意見が違うのは当たり前だし、だからこそ議論が深まるのだから、それを受け入れていくのが正しくファンの在り方である。
自分に良い意見ばかり寄せられるアーティストは伸びないし、安定を求めて面白さを失っていってしまう。(更にアーティストもファンをカネを落とすものとしかみなくなることもあるかもね。)
これは音楽だけに言えることではない。たとえばM−1の上沼恵美子へ暴言を吐いたお笑い芸人の件でもそうだ。
つまり、ファンが囲いすぎるとアーティストも成長しないのではないかという意見である。
ファンを大切にすることも大事だが、それ以上に批判的意見や、もっと面白いことに挑戦してみるという姿勢はやはり揉まれて磨かれるべきなのだろうと思う。
だからこそ、批判をする側も愛を持ってするべきだろう。
まず音楽を聞いて、聴き込んで、自分に落とし込んで、アーティストの気持ちになって、他の曲も聞きまくって、最低限そこまでして批判はするべきだし、ただ一曲が悪かったからと言ってすべてを悪いモノ扱いするのはいいことではない。
まとめると、音楽批評は必要だが、批評というような大それたものではなく、意見共有的なノリで評価できればいいと思う。
喫茶店であの曲良かった、あの曲は微妙だったとか友人と話し合う。そんなノリでいいのではないだろうか。
そうであってほしいという願いも込めて。
ラーメン二郎に行った話。
東京の大学に通う友達の家に泊まって、朝っぱらからラーメン二郎を腹に入れる所存だ。
爆弾カロリーに挑む。
食うぞ。俺は食らう。初めてラーメン二郎に挑む俺はそんな風に思っていた。
小ラーメンを頼み、食券を台に置き、店主に野菜少なめ、辛め、ニンニク抜きで!
そう言った。たしかに俺の口から出た言葉は言霊となり、店主の耳に届いたと感じた。
しかし、野菜の量は多かった。それに最後に気持ち程度のもやし1束が足された。
俺はこんな化け物みたいなラーメンを食べたことがない。
一人孤独のグルメ(独り言を心の中で)をしていたのだが、あまりの迫力に途中で声が出てしまった。
「まじか」
だが俺は今日喰らわねばならぬ。
俺はラーメンを自分の席に置き、いただきますをコールし、食べた。
必死に食らいついた。
他に負けないように。
しかし、ラーメン二郎とは弱肉強食の世界。
早く食えたやつが勝ち、早く食ったやつが正義であり、王なのだ。
遅いやつはどんどん取り残され、早く食べなければならないというプレッシャーに悩まされながら、食事をしなければならない。
人間元来食事を楽しむことを喜びに感じる生き物といってもいいだろう。
しかしラーメン二郎ではそんな戯れ言は通用しない。
まさにサバンナで起こるサバイバルのように、生き残るためには早く食うしかない。それだけだ。
ラーメン二郎楽しみだなー⭐️
そんな風に思っていたあの頃の俺はまごうことなき素人。
初心者であり、ビギナーであり、二郎に訪れる野獣たちからしたら生まれたての赤ちゃんのようなものだった。
俺はすぐに取り残された。
隣のアラフォー男性くらいの戦士は俺がラーメンを半分食べたあたりではもう完食し、ごちそうさまの挨拶をしていた。
化け物だった。
そして卓上を台拭きで掃除までして余裕の表情で俺を横目に店を出た。
化け物みたいな速さだった。範馬勇次郎がショットグラスを飲み干すスピードが速すぎるというシーンを思い出した。
店の回転率は確実にあのような強者のお陰で成り立っている。
周りは皆フードファイターであり、神聖なるラーメン二郎信仰者であり、生活習慣病予備軍であるのだ。
俺は必死の思いで食いまくった。時に顎が外れるほどの思いで、時には嗚咽しながら食べ続けた。
それはそれは楽しい食事とはかけ離れたただのカロリー摂取である。
俺は完食後にラーメン二郎を出て思った。もう二度と行かねえ。
そうすると友人は言ったのだ。
そう言ってるけど、また明日ラーメン二郎に行きたいって言ってるよ。
そんなわけがない。そう思って夜を越えて朝を迎えた俺だが、まんまと無意識のうちに「またラーメン二郎行きてえなぁ」とつぶやいていた。
ラーメン二郎の店主はラーメンのどんぶりに最初白い粉を入れるのだが、友人はあれを薬という。ラーメン二郎の中毒性はまさにあのヤクが原因である。
そう語った。
俺は聞いたことがある。南米ではヤク入りのpizzaが流行っていると。それによりリピート率は上がり、儲かるらしい。
俺は見てしまった。みてはいけないものを。あのラーメン二郎の店主が惜しげもなくスープ投入前に入れていた白い粉は覚醒剤だったのだ。(嘘です。)
それは酒井法子もマンモスうれぴーを出してしまうだろうよ。
ハッピーシュガーライフを最終回まで見た感想。
最終回まで見ました。
アニメって考えさせてくれるお話が多くて好きです。
今回はハッピーシュガーライフの話ですが、完全に最終回まで見た人向けで話してますのであしからず。
人を殺してでも、愛するひとを守り抜かなければならないという主人公(さとちゃん)の心情は11話までは主人公と、愛する人の時間の共有、生活の共有、幸せな時間の共有(角砂糖を同じ瓶閉じ込める)ものだったと思う。
しかし、12話の後半Bパートでは、ますます嫌な予感のする展開になっていき、主人公にとっての的が現れて、お互いのエゴを押し付け合う。
そして最終的には主人公は愛するものとの死を覚悟するのだが、マンションの13階から飛び降りた時、走馬灯のようにもしも生き延びて、楽しい生活を共有できたら、、、という気持ちが主人公の頭の中に映し出される。
ふと我に返ると、「本当の愛とは命をかけてでもその人を守りたいと思う気持ちだ」と知るのである。
その結果主人公は愛するものが助かるように自分が下敷きになってしまう。
そして、この物語はそこで終わってもメリーハッピーエンドとしては成り立つし、その切り方は結構あると思う。
がしかし、その後愛された者の物語も語られている。
その後は愛された者の中に主人公という存在が生き続ける。
つまり、残されたものはずっと愛し続けなければならない。ということだ。
人は死んだ人をなおも愛し続けることができるのか。夫が死んで再婚なんて山ほどある話で、それは誰も攻めることはできないだろう。しかし、そこに本当の愛はあるのかと問われれば答えに詰まってしまう案件である。
だが、この作品は、死んだ人はこころの中に生き続け、愛し続けるのだ。
本当の愛とは無性に相手を思い続けることであり、何事も許し続けることであり、その人のことを思ってやまないものなのだ。
私は今まで人を本当に愛したことがある人をまだ見つけたことがないのかもしれない。
そして自分もまだそうなれていない。
そんな感想を持った。
「カメラを止めるな!」まだ一回しか見てませんごめんなさい。 10回は見ないとだめですよね。すいませんでした。
ごめんなさい。まだ一回しか見てません。ホントは少なくとも10回は見ないとレビューすること自体がはばかられると思いますがお許しください。(上映数も上映してる映画館もすくねえんだ。あと、レビューすること自体が愚行なのかもしれない。)
7/30に名古屋のシネマスコーレで見てまいりました。
噂によれば、朝9時半からナイトショーの整理券販売ということで、朝早くに起きて、9時半前にはシネマスコーレにつくようにしていたのですが、私が購入できたのはなんと17番目。整理券を購入しに来たお客さんもワクワクしながら、そわそわしながら暑い中買いに来ていて、それはもう見る前からテンションがぶち上がったしまったわけです。(名古屋ではそのインディー映画小劇場でしかやってないのがこれまた。)
シネマスコーレでは、立ち見も出ていて、小さな劇場ですが、笑い声も相当充満した空間で、いい意味でスカッとするようなシネマでしたし、この映画自体が映画館で笑うことをはばからない内容となっている!!(もはや笑える映画というだけでもネタバレになりかねない)
今やネットだけでなく、テレビでも宣伝されて(ネタバレされて笑)特にスッキリのネタバレはほんとひどいと伊集院光もラジオで酷評していましたが、まぁ特にネタバレ無しで見たほうがいい、なんなら予告編さえも見ないでいってくれ、映画のポスターに書いてある文字も読むな、しまいには、映画のポスターも観るな!!と言われて甚だしいわけです。
例えるなら、初めてディズニーに行ったときの感覚、はじめてのチュウの感覚、初めて好きなアーティストのライブに行く感覚そんなすべての初めてを完全に楽しむためにネタバレは聞かないでくださいお願いします。というわけです。
もうネタバレ(上映宣伝)してるテレビ局側は、初めて見る面白さ、驚きを味わえない悔しさに怒り狂って、まだ見れていない(見たくても)人たちに意地悪しようとしてる人たちが番組の宣伝特番や、宣伝コーナーを企画したに違いない!そうとしか思えない!!!(被害妄想)
そんな期待値がスピード違反して、振り切ってしまっている中で映画館になるだけネタバレされるものを見ないようにして行ったわけですが(予告編は耐えきれず見てしまいました。)、前半の前振り段階でいつ面白いことが起こるのか、いつ俺をワクワクさせてくれるのか!!!!いつでも待ち構えてるぞおおおお!!???って気持ちで見ていたから、第一幕が終わった瞬間に、「あぁ、なるほどね。 んで?これでおわりじゃああないんだろおおお???俺をもっとワクワクさせてくれよおおおお??(ベジータ的ノリ)」的な気持ちで高ぶってしまいました。(ニヤニヤが止まらねえのなんの。)いつ大笑いできるのか、まさにペ・ヨンジュン出待ち濡れ濡れババア状態だったんです。(失言)
そしたら後半どんどんテンポが速くなっていって、内容が深まるうちに、観客の笑い声が爆発する。見てる側も、いつ爆笑できるのかもう待っている感じなんです。
もう、みんなここだというタイミングで笑おうとしてる。
もうわざとらしく、笑おうとしてる。そう思えるほどでっかい笑い声が響いてるんです。
ワクワクせざるを得ない!!!
それにこの映画、蛇足は一切ない、ただただラストシーン(これはどこからがラストシーンかわからないくらいすごい勢いで。もう後半ずっとラスト)に向かって突っ走って、見終わったあとの多幸感は劇場から出た観客を包み込んでいた。
そして、「初回の驚きがすごすぎてるけど2回目見に行こうと思えるのか?」と聞かれたら大半は「もちろん、もう一回見に行きたい。」と言うだろう。
てかもう2回目は最初っからニヤニヤしちゃうよね。もしかしたら声出して笑っちゃうかもしれないから、初見の人に睨まれそうだよね。そこで思うのは、やっぱ初回の人と、2回目の人で劇場分けたほうがいいレベル。
インディー映画とは思えないほどのクオリティなのはもちろんだったし、見た人しかわからないこの感覚。あぁーやっとこんなに口コミされてる理由がわかった。スッキリ!!(朝の番組のほうは全くすっきりしないネタバレでした。)
あと、この映画見たあとに、いろんなレビュー観ると、すっげえ楽しい。
「そうそうそう!!確かにそうだよね!! うわああああさいっこう!!」そんな気持ちが溢れてくるから、映画を見たあとも余韻だけで楽しめちゃうんだよなぁ。
映画のネタバレしてくるやつって相当うざいけど、もうそういうやつさえもネタバレはできるだけしないようにしようとか思っちゃうだろうし、もうネタバレがタブーとされる映画ってこれ以上にあるか???というくらい。
もはや社会現象になってんだ。
くっっそおおおめちゃくちゃアツいな!!!
僕の友達みんな見てくれ!! 「よろしくで〜す!」←ネタバレ
未来のミライを見てきました。 ネタバレあり 賛否分かれに分かれるだろうなぁ。
細田守作品の特徴として
圧倒的引き絵
家族愛
二つの世界を行き来する主人公の成長ストーリー
があると思う。
家族愛と二世界を行き来する主人公が大まかなテーマ(サマーウォーズしかりバケモノの子しかり)で、それを元にストーリーが構成され、細かなメッセージ性を感じる良さがある。
今回の未来のミライはどうしたことか、今までの細田作品以上に突発的なトリガーに違和感を感じた。(たとえばベターなものでいえば、未来の世界を救うためにやってきた未来人が、現在の状況を変えに来るとかそういうものが全くない)
というのも、まず主人公のくんちゃんが未来のミライちゃんに出会うきっかけ(理由づけ)がすごく無理やりというか、なんなら意味がわからない。
(ここでは雛人形をしまってくれという部分)
この物語はある意味自分の両親や、過去に行って先祖に出会って主人公が成長するオムニバス的作品という捉え方もできるかもしれない。
しかし、それならそれで、ミライの存在は必要であったかは疑問が残るし、仮にあったとしてもミライの登場の仕方や、細田さんの好きな動物である飼い犬の存在の人間化もストーリーとの関連性はいまいち掴みずらい。(てか細田氏がただのケモナーなだけなのでは?とさえも思える。)
主人公の成長物語かと思ったらはずっと幼児のままで終わるし、主人公のくんちゃんが大きくなった姿(未来の姿)も映されるが、その過程でどんな経験を経て主人公のようなやんちゃ坊主があんなクールなイケメンになるのかがわからないし、その過程を描いてこそが細田守作品なのでは?と思ってしまった。
(あとくんちゃんって名前呼びにくいだろ。「くん」なのか「ちゃん」なのか「ペコ」なのか「りゅうちぇる」なのかはっきりさせてくれよ。)←ペコアンドりゅうちぇる関係ないだろ。
細田作品のお父さんの存在は草食系なよなよ貧弱男子だが、今作もそうだ。それにより現代的パパ像を描くのはわかるのだが、父親が刺さることを言うわけでもなければ、行動で示そうとするわけでもなくキャラクターとしての存在感はあまりなく、残るのは星野源の声だけだ。(あんなにも星野源すぎると逃げ恥連想しちゃうからやめてくれよ。)
逆に過去に遡った時に出会う、ひいおじいちゃんと位置づけられてる人物に乗り物に乗るときのコツを教えてもらうシーンの方がよっぽど父親を感じられた。
ミライがくんちゃんに過去にひいおじいちゃんが戦争から生還してなかったら私たちはいなかったし、とか、過去があって未来がある。というテーマを感じたが、もしそのテーマを伝えたいのであれば、過去と現在の中で描けばいいし、未来の存在は必要なのかがすごく疑問点だった。
今まで家族間での家族愛が主に重点化していた。今作では家族愛や大きな範囲の家族愛(ひいおじいちゃん)などのつながりはもちろん、先祖の奇跡のようなつながりによって今生きている(今の自分は存在する)メッセージ性は伝わった。
主人公のくんちゃんはそういったタイムトラベルの経験からの学びによって少し成長するのだが、そういうものってタイムトラベルからでなくて、家族から学ぶべきなのでは?と疑問に思ってしまう。
あとこの過程の設定が、結構成功者の家で、どこか貧しい暮らしの中で教訓を見出すのでもなく、平穏無事に満ち満ちた暮らしの中で展開するし、場面も家の描写ばかりである。強烈的に社会に訴えかけるテーマではないことは確かだ。ゆるい。
そこがなんだかなぁポイントでもあるなぁ
とにかくシナリオを取っ払って演出と世界観と作画で勝負した結果が今回だ。
確かに自分のクソガキ時代を振り返ればくんちゃんに感情移入はできるが、話が進むほどなぜか主人公がやりすぎではないかと思えるほどわがままなガキに見えてきてしまう。
色々まとまりなく語ったが、作画はそれは素晴らしかったし、風景画や、空の青さの表現や、あの柔らかい雪の結晶まで繊細な表現がなされていて素晴らしかったし、ひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの結婚秘話みたいなのも良かった。
残念ながら涙脆すぎる自分は泣いてしまったシーンもあったが、でも今までの細田作品以上に疑問点が多すぎて困惑してしまう作品だった。
夏が少し好きになれそうなのは少し大人になれたから。
私は夏が嫌いだ。
夏は僕らを殺しに来てる。 太陽は24時間稼働し続けているし、オゾン層はもはや僕らを守ってはくれない。 受け入れるしかない。この暑さを。
地球温暖化対策なんて言う前に、僕らが熱中症対策しないと死ぬぜ?
熱いのは害悪。 そんなふうに思っていた。(少なからず熱いのは誰でも嫌だろう。)
しかし、夏を好きになれなければ今や生きていけない。
夏祭り、海開き、スイカ割り、BBQ、水遊び、花火、浴衣etc...
夏の風物詩なんてものは多い。でも、インドアな僕にとってはあまり関係がないし、クーラーのきいた部屋でダラダラしてるくらいが夏だと思っていた。
しかし、最近ふと気づいた。
僕らは夏に甘える
全部夏のせいにして。
だから夏が嫌いな君も、一度夏に全部責任を負わせてみてくれ。
君が朝学校行きたくない。そんな個人的な理由を夏のせいにしてくれ。
君が仕事しなきゃいけないのに、ダラダラしている理由を夏のせいにしてくれ。
君が昼間からお酒を飲んでいることを、夏のせいにしてくれ。
君が仕事に遅刻したことを夏のせいにしてくれ。
俺がエロサイトをちょっと見ただけなのにPCがウィルス感染してしまったこと、夏のせいにしてくれ。
君が海で出会った湘南乃風を体中から発している男と勢いでヤってしまったなら夏乃せいにしてくれ。
君が夏に踊らされて付き合った彼女に秋に振られたなら夏のせいにしてくれ。
君が好きな子を夏祭りに誘ったが、既に別の人と約束していたのも夏のせいにしてくれ。
君がなにかやりきれないことに直面したとき、夏のせいにしてくれ。
夏のせいにして、自分を存分に甘やかしてくれ。
別に、どこかにパーっと遊びに行く必要なんてない。
些細なことでいいんだ。欲望を開放させてくれ。
夏限定のほろよいみんなは飲んだか?
あれを昼間から飲んでごろごろさせてあげなさい。
夏はもっと些細な欲望を開放させていいはずだ。
君は夏と愛のスコールの相性の良さを知っているか?
もっと夜が涼しくなれば、これを片手に散歩してみてくれ。
きっと、オツに浸れる。
いつもならアイスは一日2個までだけど。
そんなルールはもういらない。
夏は特別アイスを何個食べてもいい。 全部夏のせい。
夏にカメラを片手に散歩してみてくれ。
きっと普段見えない夏らしさを見つけられる。
きゅうりが家になっていた。
なんだかすごく愛くるしい写真が取れた。
夏はあつい。
その事実は変えられない。
ならば、その暑さを受け入れて、自分をちょっとだけ甘やかせて、夏のいい部分だけを全力で愉しめばいい。
学生時代の夏休みは始まりを告げると同時に、夏休みの終わりも感じる。
それほど早く感じる季節。 刹那的季節。
だからこそ、僕らは一日一日を暑さに負けないで生きなければならない。
全力で夏を楽しむために。
まぁつまりは「夏を愛さざる者、真の夏を得ず。」
ということだね。
夏は熱いだけじゃない。 アツい季節なのかもしれない。