野郎って言葉が嫌いです
私は野郎という言葉が嫌いです。
野郎とは辞書によると以下の通りです。
1 男性をののしりさげすんでいう語。「あの野郎、ふとい奴だ」「ばかな野郎だ」
2 前髪をそり落とした若い男。
「さてさて利口な―ぢゃな」〈浄・
〉
3 野郎歌舞伎の役者。
「歌舞伎といふ事法度になり、太夫子残らず前髪おろして―になりし時は」〈浮・ ・五〉
4 「
」の略。
5 「
」の略。
6 男色を売る者。かげま。
野郎だけで飲み会、野郎ども、野郎がいっぱいいるので(力仕事は)大丈夫です など、いろいろ野郎という言葉を耳にする機会はあると思います。
日常的によく聞くかと言われれば、そうではないかもしれませんが、私の母親はよく使います。
野郎って蔑称なのに、男性を指す言葉として使われますよね。
これって間違った日本語ではないでしょうか。
この言葉を使われる時いつも違和感がありました。
この言葉のイメージは不潔で、暑苦しくて、殺気立っていて、ガテン系で。。。など様々な男らしさ(社会に決められた男性像)が連想されます。
柔らかく優しい印象は全くこの言葉にはないのです。男性へのイメージって実際はそれだけじゃないのに。
このような言葉って多くあります。
野郎とはまた別の話ですが、
「清楚」という言葉はよく女性の外見を(時には内面も)示す言葉です。
しかし、「清楚」という言葉には男性の求める女性らしさが含まれています。
女の人は清らかで、清潔で、飾り気なくシンプルで、、、
もっと具体的に言えば、黒髪で、メイクも簡素で、行儀も良くて、気配りもできて、
もっともっと言えば、サラダを全員分何も言わずに取り分けて、人間関係になに不自由してなくて、家柄も立派で、母親もきれいで、、、、などなど。
後半言い過ぎな部分が多いかもですがそんな感じです。
「清楚」とは逆の言葉として「濃艶(のうえん)」という言葉がありますが、
実際は「ギャル」を挙げる人が多いでしょうか。(?)
「ギャル」の判断基準ってなんでしょうか。
たぶん見た目によるところが大きいでしょう。
しかし、見た目は派手でも言葉遣いは優しかったり、礼儀も正しく、清楚な性格かもしれません。
清楚もギャルもなんだか見た目を表す言葉に見えて
見た目と同時に中身も決定してしまう言葉なのかもしれません。
清楚キャラと言う言葉がありますが、あれは清楚な見た目と性格をしているけれど、実は演技で、実際のところは違うという言葉でしょう。
この言葉が生まれているということは実際に清楚は見た目とそれ以上に中身のことも形容しているといえます。
これは野郎にも言えますよね。
こういう偏見チックな言葉って日本語にはたくさんあると思ってて、自分も無意識的に使ってしまうことがあるのですが、気をつけていこうと思っている次第であります。
俺もお前も差別はやめられてない。(今回は性差別)
人は何かと差別をしてしまう。
最近では日本にはなかったLGBTQへの理解、フェミニズムやヴィーガンについての認識も高まってきた。
この前代未聞の最大加速で進むダイバーシティのネット社会ではたして差別を打倒することはできるのだろうか。
私は不可能だと思う。
※ここで私が言う差別は差別ではないのではないのか?という人へ。 差別か差別じゃないかは場合によっては私が決め、貴方が決めることであって、私が決めることでも貴方が決めることではない。
1 性的差別
最近トランスジェンダーについての本を読んだ。
正直トランスジェンダーの認識は複雑かつ、自分自身でも完全に理解できているとは言い切れない(勉強不足で申し訳ない)ので言及はさけたいが、私はトランスジェンダーについて名前は知っていたが実際の実情までは詳しくしらなかった。
しかし、トランスジェンダーについて知った時、まず男と女の2つの性別しかないと考えるその大前提がもはや間違っていると私ははっきり理解したことは確かだ。
そう考えると日常生活には様々な性的差別(性的区別と思う人もいるかも知れないが、もはや差別だと言える。)がある。
大きなところで言えば
トイレだ。 トイレには男子トイレと女子トイレしかない。
しかし、トランスジェンダーの人はどちらにも属さない第三のセックスなのだからトランスジェンダーの人からしてみれば差別的だと言える。
服装もそうだろう。
スカートは女の子が履くもの、ブラジャーは女の子がつけるもの、ネクタイは男がするものなど。
それは差別でないという認識はもはや正解ではないのだ。
(上記で述べたのは記号的差別。女はピンク、男は青だとか)
私も今までずっとそのような差別をしてきた。
男は戦隊モノが好きだろうとか、女はファッションが好きだろうとか、なんだか今思えば決めつけも決めつけ、偏見も偏見。
そういう世の中で生きてきたことに違和感を感じてきたのだ。
でもそれがわかりやすいレッテルであり、仲間意識をつくりやすい。
だから女はああだこうだという会話が飲み会の席で盛り上がるし、
男はなんだかんだという会話が喫茶店で繰り広げられる。
しかし、今まで成り立ってきたその日本の風土を正しいからという理由だけでかえられるだろうか?
日本人の笑いどころというか、お笑いのシステムはおかしな人(を演じる芸人)がいて、なんだかそれが大前提にある常識(この常識は今崩壊し始めているが)ズレてるからなんだか面白かった。
そこでダイバーシティを認めてしまえば今までのお笑いのシステムは崩壊する。
例えば、コントで女性キャラを演じる男のおもしろさだ。
女性キャラの何が面白いかといえば、見るからに男性なのに、女装をして女子になりきれてないから面白いことではないか?(ちがってたらごめん)
そう仮定した場合、マジョリティセックスである異性愛者の我々は笑えるかもしれないが、そうではないLGBTQに分類される人(分類という言葉は全く適切ではないが)は面白いと思えるだろうか。
たとえそれらの人が笑えたとして、それは日本の男女の認識の中で笑っているに過ぎない。(と思う)
だから
日本ではその認識を変えることはできない。
差別をなくすことができないのだ。
我々は差別をやめることはできない。
しかし
差別を認識した上で
相手を思いやることはできる。
LGBTQやジェンダーを心のなかに止めておけば、思い出して配慮できる。
そしてそんな認識を思い出させるのはマイノリティの声だろう。
性的差別を感じたときはそういえばいい。
我々は無知な部分が多いので間違ってしまう。しかし、間違った部分は指摘されなければ間違ったままで同じ過ちを繰り返す。
だから、マイノリティは大きな声で間違っていると言ってほしい。
そして私は性的マイノリティの人々とまだ仲良くなったことはないが、そのような人間と仲良くなった日のためにここに書いたことは忘れないでいようと思う。
おやすみなさい。
「誤解は人生を彩る」
どうもお久し振りです。
久しぶりにブログを再開したいと思っていて、といっても前回の書き出しも久しぶりに〜みたいな話だったので次またいつ書くかは知りません。
ただ、ブログではないんですが、日々きになったことをメモに書いてます。
そこをここでちょくちょく吐き出せればいいなと思っております。
今日は『西の魔女が死んだ』という最近読んだ小説に出てくる
「誤解は人生を彩る」ということばが胸に刺さったときのことをここに書こうと思います。
と思ったんですが、いまグーグルで検索をかけたら同じこと言ってる人がいっぱいいてがっかりしました。
まぁ書きたかったのは
(主に片思いとかで)自分に好意があるんじゃないか?
なんて誤解してる時って世界がなんだか美しく見えたりするよね。ということでした。
でも今冷静に考えて、これを18歳、百歩譲って20歳がここに書き連ねてたらまだ見れるんですが、
ほら、ぼくもう22歳なんですよ。
22歳とかで片思いで誤解してるときが〜とか言ってるのやばくないですか?
話はちょっとズレるんですけど、今の20代の童貞率しってます?データがありすぎるんですけど、いろいろ調べたら約30〜40%くらいでした。
それで”セックスしない症候群”なんて言葉とかも出てきて深刻な問題になってます。
なんかみんな病気にしがちですよね。
なにかと病名をつけたがる。(その話はまた別でしますが)
とにかく日本人って童貞にサブカルチャーの気質を加えたというか、その人を表す属性みたいに扱ってきた節があるんですよ。
それでやっぱり童貞を公言できる環境ってできてきたんだと思います。(特にインターネットではネタにしやすい)
僕もその一人かもしれませんが。
話を戻して、今までの話をラノベ風にすると
「22歳で片思いが云々とか言っていた童貞が、23歳も先行き不安なんですが早く異世界転生してもらっていいですか?」
でよろしくおねがいします。
オクラババア
オクラババアの話をしよう。
バイトでレジ打ちしているときに冷凍オクラをたくさん買っていくババアがいた。そのババアは頼んでもいないのにオクラがいかに体に良いか語りだした。
どうせテレビの受け売りだろうにあたかも自分が発明した健康法かのように達者にのべつ幕なしで語り続ける。私はそれに苦笑いしかできなかった。
一番反応に困るこの状況を切り抜けて後ろで待っている別のババアの商品をレジに通さなければならない。
レジうちが終わると同時にババアは俺に聞いた。
BBA「いくら?」
俺「オクラですよ笑」
3秒後俺は気づいた。
このBBAは値段について聞いていたのだと。
俺はさっきまでのオクラトークに気を取られてしまい、今接客中のBBAがイクラ(魚卵の方)とオクラを聞き間違えているのだと勘違いしていたのだ。
しかし、BBAが知りたいのは今レジに通した商品の合計金額である。
なのに俺がいきなり「オクラですよ笑」と言い出した。ボケてるのは私だ。
私は恥ずかしくなってその場から逃げ出したくなった。
最近気づいたこと。
アニメのアンパンマンを見ていた時のことです。アンパンマンにチーズっていう犬が登場しますよね?
彼がクレープ生地に自分の顔を書いていたんです。クレープって円形でとっても書きやすそうですもんね。チョコペンでクレープ生地いっぱいに上手な似顔絵を書いていて、チーズもとっても満足げな様子だったんです。
でも次の瞬間、、、チーズはクレープ生地を畳みだしたんです。クレープ完成形にしたんです。「え!?クレープに書いた意味。。。」思わず口に出してしまいました。驚きだったんです。
だってさっきまで得意げにクレープに似顔絵を書いていた犬が次の瞬間にはもう畳んでいるんです。
あの犬にはもったいないとかそういう感情はないのでしょうか?
あとクリームとかいちごとかバナナとか普通乗せるじゃないですか。。。でも載せてないんです。チョコソースだけなんです。チョコソースだけのクレープなんです。彼が原宿のクレープ屋さんだったら一発でクビです。
そして後々気づいたのが、犬ってチョコいいんでしたっけ?
だめですよね?下痢とか起こしますよね?
ぶっ飛んでんなぁ。
すごくぶっ飛んでいるのに、アンパンマンの和やかな雰囲気に騙されてしまいました。
SHIROBAKOをもう一度 この時期に 見たんだ。
僕は今就職活動の真っ最中だ。
何になりたいのか、何がしたいのか、何をすればいいのか迷いながらも時間は過ぎていく。
自分は本当は何者になりたいのか迷い苦しむときだ。
そんな時アニメ『SHIROBAKO』をもう一度見返そうと思った。
それは僕はアニメ制作会社にもエントリーシートを出そうとしていることが主に起因している。
でも、このアニメは僕に就職活動において大切なことを教えてくれたと思っている。
自分は何がしたいのか。
一番はそこじゃなかった。
自分が将来どんなふうになっていたいのか。だ
でもそんなの社会人にもなってないのにわかるわけないじゃーん。
なんて思ってる君。
そうかもしれない。
でも考えることはできるだろう。
例えば僕は音楽が好きだ
でも音楽の才能はないけど、音楽を聴くことはできる。感想を事細かに言うことができる。それを文字にして伝えることができる。
これは間接的に夢に関わっている。
アニメが好きだ。
アニメの制作としてアニメ制作がしたい。アニメが好きだから。アニメに関わってくれる人が好きだから。
アニメという作品のためになにかできることをしたい。アニメで人を幸せにしたい。
そんな気持ちが動かすんだ。
アニメが僕も好きだ。
アニメで感動させられることもあればアニメで考えさせられることもある。
でも根本はアニメは誰かが一生懸命思いを込めて作っている。
そんなアニメには価値しかない。見る価値しかない。
仕事もそうだ。
やりたいことが見つからない人はなにかやりたいことを頑張っている人を支えてあげる。そんな仕事についてみては?
輝いている人を支える仕事は自分も輝けると僕は思う。
そして仲間を大切にしよう。
僕の友達は俳優を目指している。
僕は目指すものはまだ決まっていないけど、いつかそいつと作品を作りたいと思っている。
そいつと仕事がしたいんだ。
絶対に楽しい。それが僕の夢だ。
仲間とこれを作りたいと思うこと。 そんな気持ち絶対に忘れちゃいけないし、野望はそのままで頑張るしかない。
どんな仕事になっても絶対にそれは叶えたい夢なんだ。
別に銀行マンでも、商社マンでも、サラリーマンでも、どんな仕事についてもその夢を諦めなくちゃいけない理由にはならないだろう。
だからきっと信じ続けて。