スポーツとカルチャー
山田ズーニー著 あなたの話はなぜ「通じない」のか
にて具体的に自分の意見を交えつつ問いを深めるというテーマがある。その中でシンクロナイズドスイミングについてを例にとっているのだが、
一部抜粋
「シンクロナイズドスイミング」というのをいったん忘れて、「プールでのおふざけ」「超お笑い水上ダンス」とか何でもいいのですけど、このお姉ちゃんたちはプールでただふざけているだけっていう視点で改めて鑑賞したらすごく〈笑える〉んです。
そもそもスポーツのはじまりは誰かのやった〈遊び〉だ。とすれば、この競技の〈遊び〉の部分を一瞬にして理解した気持ちになって自分もやりたくなる。もし審査項目に〈笑い〉があったなら・・・。
「プールで踊ってみよう」そのような〈遊び心〉が競技、国際的なスポーツに発展する。この遊びの中で〈笑い〉という感性は生き残れなかったのか。
もしかして選手の中に〈笑い〉を意識した演技があったかもしれない。審査項目に〈笑い〉があったとしても審査員に〈笑い〉の理解がなく(折り合い)がつかなくてやめていく選手もいるのだろうか。
これは特に見方を変える(人とは違う視点で見る)ということは時に人の想像力(妄想力)によって何倍も面白くみることができるという例である。
例えばスケートも同じような感覚でみることはできるだろうし、バレー(ダンス)もある意味芸術のようなカルチャー的存在とスポーツの融合であるだろうし、ダンスなんて特にそうだ。
体育の授業でダンスは取り入れられているしスポーツといっても過言ではない。
ヒップホップダンスはなんとなくカッコいいだけではなく面白さ、ユーモアセンスだって鑑みることはできるだろう。(スポーツであるにしても)
スポーツとカルチャーや芸術には今まで全くの関係がないと思っていたが、それは決して違うのだと思ったのだ。
音楽や映画には文化的時代背景やさまざまな歴史的バックグラウンドがある。けれどスポーツに興味のない僕はスポーツにその関連性を見出せないでいた。しかしそれは違う。
別にスポーツが好きでなくても、視点を変えれば面白くみることができるし、文化的つながりも調べれは興味のカケラとなってくれるのだと知ったのだ。
私は何者であるか A Greatest Problem
あなたは何者で何がしたいのか、何をすべきなのか、何が向いているのか。
しらない。
僕はその答えを知らない。
ずっと知らないで生きてきたし、そのままであることがもはや答えとなっている。
そこまで苦しみや辛さを伴う努力や経験はしていないし、なに不自由なく暮らしてきた。たぶん。
だからこそ。だからこそだ。
自分はどんな人間でどんなふうに生きてきて、自分だけのストーリーを語れと言われたら語れない。
それがあまりにもつまらなく、退屈だと感じてしまうからだ。自分の人生を映画化すれば1時間映画の中で面白いシーンはほんの数分程度で、あとはずっと退屈なシーンかもしれない。だし、小さい頃の記憶が驚くほどに希薄だ。
世の中のコミュニティは多様であるし、社会はその中で自由に発言して、発信することを望んでいる。
嘘である。
社会は自分を隠して隠して臨機応変に、人によって態度を変えつつ、仮面をかぶりつつ、何者かに変身しながら生きていくことを望んでいる。これが真実だ。
世の中にはあまりにも負の感情をさらけ出す場所が少ない。まさに自分がこれだと思える場所が、居場所が少ない。というかないと言ってもいいかもしれない。
だから、僕たちは自分の気持ちをはっきり言えている音楽や、映画や、小説や、漫画や、芸術や、それらすべてのカルチャー的影響力に憧れを抱く。
自分の本当の気持が言える。どんなことを言ってもいい、合うたびにまた会いたくなるような人間関係をあなたは持っているか。
あなたが何者であるか。
それを証明してくれる存在がいるかいないのか。
人生にとって気づきにくいが大きな大きな問題だ
小説を書きたいのですが、文才がないし、
ずっと青春に肩入れしている男の話(童貞)
「青春」その文字を聞いたとき人はどのようなイメージをするだろう。
初恋、友情、仲間、汗と涙。
想像力の低い私にはとりあえずこれくらいしか思い浮かばない。なんたって今朝の10時半だし、きっと夜になればもっと思い浮かぶのかもな。
まぁそんなことはどうでもよくて、青春ってなんだろうって話だ。
もしかしたらいまみたいなどうでもいいことの蓄積が青春の意味なのかもしれない。
これは冴えない男の人生であって、そんな冴えない人生を生きてる自分かっこいいとか思うような所謂中二病が抜けきれてない21歳童貞の話なのだけれども、そんな話誰が聞きたいんだと思う人99%、でも残りの1%(自分自身)のために書くんだ。
だれが小説を自分のために書いちゃいけないと言った? 自己満足のオナニーブログなんだから自分のために書くのが当たり前だろクソが。
第一春
「青田春男14歳、中二病にかかる」
おはようございます。みんなと絶対的に違う存在になりたい、青田春男14歳中二です(未来の21歳童貞) みんなと違っていたいので、朝登校したときにはプラスティック製の黄色と黒の鎖を手に巻いて行きました。初日で没収されましたが、自分をアピールできるいい機会になりました。
好きなアニメは俺妹、嫌いなアニメは女のふざけた妄想がまかり通る世界でおなじみ恋愛漫画、恋愛小説デッッッッス!!
僕好きな人ができて、メールで告白しました。「僕が好きって言ったらどうする?」みたいなことをメールで聞きました。たしかにーチキンプレイと罵られればそれまでですが、だけどいいじゃないですか。だって最終的には付き合えたんだから笑。
そんなこんなで彼女いたんですけど、それがまぁ21年間生きてきて唯一彼女と呼んでいい女の子です。でもまぁ別れてしまうんですけどね。
第二春
青田春男、21歳、就活生。童貞。
風俗に行くも、50分コースで32分残すという男。 射精時に出た言葉「いきま~す」という腑抜けたアムロ・レイのような声。
もはや童貞で有ることに誇りを持っている。
フラれること(ここでのフラれるはご飯に誘うも断られる。然り、ご飯に誘う前にこいつ興味ねぇなと見切りをつけて諦めることも含む)10回以上。
すぐ人を好きになるし、好きになったらすぐにその人が運命の人だと思いこむ。
しかもその後すぐ結婚したいくらい好きだと思いこむが、時間はそれをまやかしだと気づかせてくれる。
2ヶ月後には新しい可愛い女の子を好きになり、手のひらを返したように同じことを言っている。それが私だ。
顔がいいわけでもないのに、ファッションに気を使ってみたり、髪型もパーマにしてみたり、ピアスを開けてみたり、終いにはタバコも吸い始めちゃってクッソださイキリオタクだ。
自分が周りで一番おもしろいと思いながら生活しているくせに、人見知りで社会適合性は低い。
最高にダサい男だし、青春はまだまだ続くとか考えてるからタチが悪い。子供のままで大人になったと言われてみれば聞こえがいいが、そんないいものではない。
そんな青田春男は就活を始めるのだが、就活を続けていくうちに自分の夢を追いかけるか、諦めるか、そんな選択を迫られている。
でも夢って言っても、歌がうまいわけじゃないし、曲を作ってもそこそこの出来だし、ましてや絵が上手いわけでもなく、芸術基質はあまりないだろう。けれども春男はなにか誰かに届ける仕事がしたい。自分の好きな仕事がしたいと願ってやまないのだ。
そんな男が事件を起こす。
だれしも心にクロちゃんというモンスターを飼っている説
みなさん水ダウ(水曜日のダウンタウン)みてますか?
ネットで話題の「モンスターハウス」という企画がありまして、男女6人がシェアハウスする恋愛モニタリングドキュメンタリー的な番組でして、企画自体は「テラスハウス」丸パクリです。
けれど、見てみると全く別物として捉えるべき番組だと思いました。
結論から言えば、これは恋愛モニタリングドキュメンタリー的な番組ではなく、
嫌な自分を見つめ直すための自己啓発番組だったのです。
最初から最新の回まで見たのですが(たしか次回最終回)、ネットではキモいだの、クズだの、嘘つきだの、世間の嫌われ者のような扱われ方で、批判殺到です。
平気で二股をして、嘘つくし、女の子がさっきまで座っていたソファーに顔を押し付けてみたり、なんかいろいろ世間体という概念のぶっ壊し的行為をしまくっているからこそ、そのような評価となってしまったのでしょう。
確かに最初の方は私もテレビだからだろうと面白半分で見ていたのですが、、、回を重ねるにつれて、私の考えはだんだんと変わってきました。
私はまるでクロちゃんのことを、自分の黒い部分が人形になって現れたかのように思えたからです。
つまり、誰しもクロちゃんのようなゲスかったり、ずるかったりする部分をもっているということに気づいたのです。これはテレビですから、そこまでのメッセージ性より、異様なものを見るときの好奇心を誘ったりするだけの意味合いしかないかもしれません。
しかし、私にはもうそうとは思えないのです。
クロちゃんが二股をして嘘をつきながら隠そうとしてたこと。
これはみんな口に出さないだけで、やっている人なんていっぱいいます。
二股してる男なんていっぱいいるし、出ているタレントも全員かわいいんだから、本能に従ったまででしょう。
そして、一人脱落者をクロちゃんが選ぶシーンでも、自分と恋愛ができる確率が低い人を落としたり、男子ルームメイトを脱落させない代わりに手出しをさせないようにしたり、もちろんこれが道徳的にいいとは言えないかもしれない。
けれど、(そのような行為を実際にしていなかったとしても)誰しも自分の黒さをもっている。(クロちゃんだけに)それをこの番組は気づかせてくれる
さらに現実的にこの番組が人気になっているのを加味すれば、きっと視聴者も黒いものを見るのが好きだし、怖いもの見たさが故の面白いがあるのだ。
テラスハウスよりも生々しい人間らしさがある。 だから惹かれるのだ。
クロちゃんは嫌われ役を買って出て、さらに僕たちになにか大切なものを気づかせようとしている。クロちゃんの行動力を見習うべきだし、「クロちゃんみたいに人を傷つけるようなことはしちゃいけない」と気づくべきだ。
だからこそ我々視聴者はクロちゃんを反面教師にしなければならない。
誰しも心の中にクロちゃんを飼っているのだから。
忘れられない夜に
あなたの親友はいつ出会いましたか?
僕が生まれてから21年が経って、それなりの人数の人と友だちになって、いろいろな話をしてきた。
けど、僕にとって本当に好き勝手なんでも言えるのはやっぱり中学時代の仲間だ。
そいつと話してるとワクワクする。
僕はこんな風に友達に向けてのメッセージなんて絶対恥ずかしくて書かないのだけれど、なんだか今日は書かなきゃいけないと思った。
あの夜を忘れないために。
僕の親友は俳優を目指してて、俳優の勉強をしてて取得した豊富な情報だったり、経験談だったりを話してくれる。そんな話を聞いて自分に落とし込んだとき、「井の中の蛙大海を知らずだなぁ」なんて思いながら大きな海を思い描いてる。
彼も夢を追い続けながら就活するんだって。僕も就活しなきゃいけない。
そりゃーみんな思ってることだけれども、好きなことで仕事したい。
僕の親友は俳優で食っていきたい。僕はなにか好きなことに関わっている仕事がしたい(漠然としててごめん)。
本当は雑誌のライターとかになりたい。(たぶん)
たぶんお互いに現実を見なきゃいけないけれど、やりたいことは山ほど浮かぶ。
僕は自作のZINE(日本で言う同人誌的なの)を発売したいし、エッセイだって出版しちゃったりなんかしてバカ売れしちゃったりして、それで自分のラジオ番組とか持っちゃったりして、昔夢だったラジオパーソナリティになったりして、いっちょ前に映画評論とか音楽批評とかしちゃったりして、めっちゃ好きな伊集院光のラジオにゲストで出ちゃったりして、あと話題性だけで声優もやっちゃったりして(昔夢だったし)。
なんて夢を思い描いてるけれど、すっっっっっっっごい恥ずかしいので口に出して言ったりしない。てかそんなこと言える友達っていない。大学生なんてだいたいSEXか麻雀か、付き合っただとか付き合ってないだとか、童貞だとか童貞じゃないとか、経験人数が多い少ないだとか、株を始めたとか初めてないとか、そんな核心に絶対触れないようなうっすいはなしばっかりだ。←こんなこと言ったら嫌われかねないな。
まぁそういう話もいいよ。楽しくないわけじゃないんだけど。
僕が話したいのはもっと自分の夢についてだったり、自分の好きな漫画のあのセリフがあってさ〜とか、あの曲のこの歌詞がいいんだよね、、、とか、将来映画監督になって俺らのこと映画にしようぜ!とか、そういう学生時代に思ってた突拍子も無いまっすぐで純粋に夢を語れた話なんだ。
しかも、すべての話に共感しないでほしい。
「わかるわー」だけで終わらないでほしい。 もっと君の意見を聞かせてほしい。
もっと否定も気にせずにしてほしい。そう思える人がきっと親友なんだろう。
そんな話をタバコを吸いながらしてたら一箱空いてたし、あと自分は酔いつぶれてトイレで吐いたし。
でもなんかそれも自分っぽくていいな。なんてそう思える自分を愛したい。
もっと話したいことはあるんだけど、長くなりそうだからやめようか。
BGM 鶴 「夜を越えて」/ 「その一歩」/「リザーブシート」etc
音楽批評は本当に必要なのか。
音楽批評は必要なのか。
そんな内容の番組がサカナクションの山田一郎さんMCの番組(YOUTBEに上がってる。)
1〜4まであります。
これを友人に勧められて見たのだが、音楽批評は必要なのか。
そんな疑問について自分で深く考える機会をくれた。
私は、音楽批評とは他の批評となのつくものとは全く別物として考えるべきであると思う。
上記の動画でも触れられているように例えば、アニメ批評、漫画批評、映画批評といった作品はボロクソに批判されたりする。それもダイレクトに、なんのオブラートにも包まずに。
私が思うにこれらの作品は純粋に面白いとか面白くないとかで判断できる(ものが多い)。
面白いという感情は多少の違いはあれど、マジョリティーの感じる笑いや面白さは世間の評価と捉えるのが一般的だろう。(娯楽ビジネスが相手にするのは多数の一般人なので当然だが)
しかし、音楽となると話しは別だ。
音楽にはストーリーといったわかりやすい基本構造は存在せず、専門的意見としての音楽理論や、構成は後で考えることとして、ファーストインプレッションはほとんど感覚的に決まる。頭に残るメロディだとか、奇抜な音だとか、人によってそれぞれだ。そんな感覚的で個人差のレンジが広いものに対して、批評などはかなり難しいのだ。
ストーリーで面白いか面白くないか(細かい事抜きで)で評価しやすい映画や、小説(純文学は微妙ではあるけれども)は音楽の評価は全く別物として捉えてもいいと思う。
評価といった、どこかに規準(どこをどう、どのように評価するのかの規定)があって、基準化(規準による評価を数値化するものであり、例えば食べログの星で項目ごとに点数化するようなシステム)するような評価方法音楽には向かないといえる。
それを踏まえれば、音楽は批評であるべきではなく、もっとラフに難しくない言い方をしたほうがいいのではないかと思う。
音楽の意見共有(自分の好きな音楽を他の人に紹介するといったこと)や、音楽に対する意見(音楽に対して批判的意見を述べる)といったような言い方のほうがいいのではないだろうか。←ラフになってないけど笑
まぁふさわしい良い言い方というのは思い浮かばないけれど、批評という言葉のイメージの中にある仰々しさに違和感を感じざるを得ないのは確かである。
ただ、ファンという存在を考慮すると話は少し違ってくる。
熱狂的なファンは、音楽そのものだけではなく、アーティストが好きでLIVEに行ったり、CDを買ったりする事が多い気がする。
それは一種のビジネスミュージックのあり方である。有名人の着てる服を真似して買うというファンも多いのだからアーティストのカリスマ性や、存在感は間接的に経済的影響力を持つのだ。(コンバースのジャックパーセルとかはニルバーナの影響で売れたと言っても過言ではないように。)
筆者である私があたかもそうでないような言い方でこの記事を書いていると思うかもしれないが、もちろん私もアーティストが好きで音楽を好きになることもあるし、音楽が好きでアーティストを好きになることもある。
しかし、これが行き過ぎるとファンはいい評価ばかりしかしない。
最もタチが悪いのは逆に、好きなアーティストへの批判的意見に対しての嫌悪がすごく執着することだ。
ツイッターなどで、そのような負の要素を見つけると鬼のごとく叩きのめし、蹂躙(じゅうりん)することに快感を覚えてるのではないかと思えるほどに批判的意見を排除しようとする。
これは良くないことだと思う。たしかに自分の好きな人を批判されるのは気持ちいいことではないが、人が複数人集まればそれは自然に起こりうる要素であるし、人それぞれ意見が違うのは当たり前だし、だからこそ議論が深まるのだから、それを受け入れていくのが正しくファンの在り方である。
自分に良い意見ばかり寄せられるアーティストは伸びないし、安定を求めて面白さを失っていってしまう。(更にアーティストもファンをカネを落とすものとしかみなくなることもあるかもね。)
これは音楽だけに言えることではない。たとえばM−1の上沼恵美子へ暴言を吐いたお笑い芸人の件でもそうだ。
つまり、ファンが囲いすぎるとアーティストも成長しないのではないかという意見である。
ファンを大切にすることも大事だが、それ以上に批判的意見や、もっと面白いことに挑戦してみるという姿勢はやはり揉まれて磨かれるべきなのだろうと思う。
だからこそ、批判をする側も愛を持ってするべきだろう。
まず音楽を聞いて、聴き込んで、自分に落とし込んで、アーティストの気持ちになって、他の曲も聞きまくって、最低限そこまでして批判はするべきだし、ただ一曲が悪かったからと言ってすべてを悪いモノ扱いするのはいいことではない。
まとめると、音楽批評は必要だが、批評というような大それたものではなく、意見共有的なノリで評価できればいいと思う。
喫茶店であの曲良かった、あの曲は微妙だったとか友人と話し合う。そんなノリでいいのではないだろうか。
そうであってほしいという願いも込めて。
ラーメン二郎に行った話。
東京の大学に通う友達の家に泊まって、朝っぱらからラーメン二郎を腹に入れる所存だ。
爆弾カロリーに挑む。
食うぞ。俺は食らう。初めてラーメン二郎に挑む俺はそんな風に思っていた。
小ラーメンを頼み、食券を台に置き、店主に野菜少なめ、辛め、ニンニク抜きで!
そう言った。たしかに俺の口から出た言葉は言霊となり、店主の耳に届いたと感じた。
しかし、野菜の量は多かった。それに最後に気持ち程度のもやし1束が足された。
俺はこんな化け物みたいなラーメンを食べたことがない。
一人孤独のグルメ(独り言を心の中で)をしていたのだが、あまりの迫力に途中で声が出てしまった。
「まじか」
だが俺は今日喰らわねばならぬ。
俺はラーメンを自分の席に置き、いただきますをコールし、食べた。
必死に食らいついた。
他に負けないように。
しかし、ラーメン二郎とは弱肉強食の世界。
早く食えたやつが勝ち、早く食ったやつが正義であり、王なのだ。
遅いやつはどんどん取り残され、早く食べなければならないというプレッシャーに悩まされながら、食事をしなければならない。
人間元来食事を楽しむことを喜びに感じる生き物といってもいいだろう。
しかしラーメン二郎ではそんな戯れ言は通用しない。
まさにサバンナで起こるサバイバルのように、生き残るためには早く食うしかない。それだけだ。
ラーメン二郎楽しみだなー⭐️
そんな風に思っていたあの頃の俺はまごうことなき素人。
初心者であり、ビギナーであり、二郎に訪れる野獣たちからしたら生まれたての赤ちゃんのようなものだった。
俺はすぐに取り残された。
隣のアラフォー男性くらいの戦士は俺がラーメンを半分食べたあたりではもう完食し、ごちそうさまの挨拶をしていた。
化け物だった。
そして卓上を台拭きで掃除までして余裕の表情で俺を横目に店を出た。
化け物みたいな速さだった。範馬勇次郎がショットグラスを飲み干すスピードが速すぎるというシーンを思い出した。
店の回転率は確実にあのような強者のお陰で成り立っている。
周りは皆フードファイターであり、神聖なるラーメン二郎信仰者であり、生活習慣病予備軍であるのだ。
俺は必死の思いで食いまくった。時に顎が外れるほどの思いで、時には嗚咽しながら食べ続けた。
それはそれは楽しい食事とはかけ離れたただのカロリー摂取である。
俺は完食後にラーメン二郎を出て思った。もう二度と行かねえ。
そうすると友人は言ったのだ。
そう言ってるけど、また明日ラーメン二郎に行きたいって言ってるよ。
そんなわけがない。そう思って夜を越えて朝を迎えた俺だが、まんまと無意識のうちに「またラーメン二郎行きてえなぁ」とつぶやいていた。
ラーメン二郎の店主はラーメンのどんぶりに最初白い粉を入れるのだが、友人はあれを薬という。ラーメン二郎の中毒性はまさにあのヤクが原因である。
そう語った。
俺は聞いたことがある。南米ではヤク入りのpizzaが流行っていると。それによりリピート率は上がり、儲かるらしい。
俺は見てしまった。みてはいけないものを。あのラーメン二郎の店主が惜しげもなくスープ投入前に入れていた白い粉は覚醒剤だったのだ。(嘘です。)
それは酒井法子もマンモスうれぴーを出してしまうだろうよ。